悪霊を退治し、幸福で平穏な生活を送るために


 そのためには、その時代、その時代に適った正しい仏法を用いていかなければならない。

 つまりその用いるべき宗教の教えには普遍的な道理、筋道貫かれているのか、またその証拠たる実証が有るかという事を厳格な基準をもって批判を加え、それに耐えうるかどうかで判断すべきである。

 その中で正しく選び出された宗教でしか、悪霊などは退治など出来ようはずもない。

 それどころか、私が宗教団体を立ち上げようとした事と同様、世の中のほとんどの宗教はこのように悪鬼魔人の悪知恵で立てられていると言えよう。

 まさしくこの執筆中にも世間を騒がせている「(精神)分裂教会」(現在、世界切捨分裂家庭連合)など、その創始者は「神(ノー・キリステ)の再誕」などと銘打ち、宗教に無知な人々を霊感商法によって献金を貪り、最終的には国際的な大事件の引き金となってしまうのである。

 他にも例えば、

『銀比羅さま信仰』

 ワニを神格化し、海の王として崇め、漁業の守り神として立てられた宗教。

 そのような畜生を崇めても何ら利益はなく、かえって畜生の心が宿ってしまう。(当然そこの信徒はワニ皮製品は御法度か?・・・)

『墨汁教』

 生きながらに神となる事を願い、心に悪いと思ったことは行わない事。(常識的な道徳感と思うが)そうすれば自分は神さまになれるそうだ。

『桃ノ木神社』

 クローン桃ノ木を神木として崇めるそうだが、科学者バクスター氏が発見した理論によれば、植物とは人の心に反応して良く成長もし、また枯れてしまう事もあるそうである。そのような人間以下の植物を神格化し、逆に拝む宗教などに厄を払う力も、交通事故から免れる事も、商売繁盛する道理も筋道もない。

 単なる「神さまを信じる心が奇跡を生む!」等と、実にまことしやかに人を欺き、利益もない大小の神札にそれぞれ値段を付けて荒稼ぎをする神主に人を救う気持ちなど微塵も持ち合わせていないのが、その実態である。

『海老神宮』

 日本最大の神社だが、そこで勤務していた巫女さんからの内情であるが、同僚の巫女さんは勤め始めてから次々と原因不明の病気となり辞めていく。

 またある女性は神主がのりとを上げるたびに憑依現象が起き、暴れ始めるのだそうだ。またある男性職員は採用された途端、なぜか裏山で首吊り自殺をしたとの事である。そんな内部職員が自殺したり奇怪な死を遂げる所に病気の平癒、家内安全など人の救済や利益の得られる道理はなく、参拝すればかえってその影響を受け、逆に災厄の根源を被り、不幸の原因を積んでしまう事は必然である。

 そのように教祖らに悪霊が憑依して立ち上げた宗教などに民衆が幸福となる道理など、有りようはずもない。

 世の中の神社や誰でも参拝、賽銭OK、という寺は全てが金儲け目的の神仏商法である。そのような教義に何の普遍性を有した道理、筋道も無い宗教を邪宗教という。

 前述のように利益など全く得られず因果が破綻している事を隠し、表向きには耳ざわりの良い、その「世界平和/神の力で幸福な家庭を」等々、いかにも縁起の良い謳い文句に迷い惹かれ関わってしまい、かえって悪霊が取り憑き、人々は自殺、家庭崩壊、殺人事件を引き起こしたりと不幸に引き込まれてしまうのである。

 そこにはまともな人生を送るための方途など求められず、前例に示した通り、かえって不幸な人生へと変貌する因果が確かに存在するのである。

 それに気付かず、或いは気付いたとしても既に手遅れとなり、或いは仲間とのしがらみで抜け出せずに、ひたすら盲信するしかないのが、この日本の多くの邪宗教である。

 それとは逆に仏教観から世界の歴史を見れば、時に適った正しい法や寺院が国中に多く広まっている時代には争いも犯罪も起こらず(中国/伏義、神農の時代)日本に於いても平安京の時代など文化が発展し歴史上、一番平和な時代であった事を知る事ができる。

 この事を仏教典には、

「吹く風は枝を鳴らさず(常に穏やかな風が吹き) 降る雨、土くれを砕かず(土砂災害を起こさない適度な降水)と、つまり正しい法が国土に広まれば天災、人災も起こらず、その国土は安穏にして常に寂光土の様相となると説かれている。

 しかしまさしく現代はといえば、全くその逆である事はご存知の通りである。

 確かに近代の日本に於いては戦後から平成二年末にかけては正しい仏教が広く国中に流布し、その五十年間は世界的に類を見ない経済大国と発展し、平和で活気があり、人々も豊かな生活を享受していた。

 ところが、それが一瞬で覆された途端、仏法上で説かれている因果の顕れる最初の節目である百日目、平成三年二月には我が国経済は一気に破綻し、大手証券会社、銀行が倒産し、その影響は誰もが受けた事は事実であろう。

 その後も一年、三年、七年、一四年、二一年と節目、節目ごとに仏法に説かれている通りの震災、河川の氾濫による洪水水害、大暴風雨が起こり、更に疫病、経済不況、不安定な諸国との国交情勢、また今までにはなかったであろう国内テロ等の三災七難の果報が競い起こり続けているという現実。

 この天災、人災が多重化して起こり続けていくという様相も、その原因の全てはこれらの邪宗教の乱立であると断言出来よう。

 話はもどるが、そのように、勝手に「身体中に写経してしまえ」とばかりに般若心経を書きなぐってもなんにもならない。前述に述べた通り、大事なのは釈迦の説いた真実の教え、つまり実教を根本として更に教えの通りに実践(その身/つまり自らの六根を清浄にする、御経は口で唱える)しなければ悪鬼払いなど出来ようはずもないのである。

 以前、ある知り合いの舞台役者に聞いた話だが、切られ役としてある映画に出演していた時、監督は、日が落ちる頃になると「今日はもう中止だ」と撮影を切り上げていたそうだ。

 その理由は、夕刻になると山の奥の方に甲冑を身に纏った源氏と平氏の武士らの姿が現れ、それがフイルムに写り込んでしまうからである。

 その姿はカメラマンは勿論、スタッフ、役者全員に見えたそうだ。

 その監督はある著書の中で「封切り日に間に合わせようと深夜に及ぶ撮影など無理を続ければ疲労がたまり、かえってクオリティが下がる。

 よって撮影は日中のみ、夕刻定時には終了する」という信念で映画を撮られていたそうだ。

——–しかしそれは他にも前述のような理由もあったからかもしれない——

 またその切られ役者はこうも言っていた。

 決まって時代劇でいくさのシーンを撮った日の深夜には、宿泊中の宿に遠くから「ガシャッ ガシャッ」という音と共に確かに甲冑を着た武士らしき者が宿の扉の前までやって来る気配を感じるそうだ。

 「誰だ!」と扉を開けても誰もいない・・・

 そんな現代に聞く悪霊の話からしても、同様に芳一さんが源平の武士の怨霊に翻弄されたであろう事は容易に事実として推察する事が出来る。