
小泉八雲が書き下ろした『耳なし芳一物語』は、地方に伝わる昔話を元にして創作された物語の一つだそうだが、私に比べれば芳一さんの方がまだまし、と言えよう。芳一さんの場合は深夜になって源平の悪霊たちがその琵琶の音色と、当時の合戦の語りを求めてやってきたのだが、私の場合は四六時中悪霊に憑依されていたのである。
また芳一さんの場合、どこかの寺の住職に体全身に般若心経を写経してもらったとの事だが それこそ、そんな我見的な方法などせんなし、つまり全く無意味という事である。
『般若心経』とは釈尊の説いた八十万法蔵とも言われる仏教典の中でも真実の教えに導く為の権教に属する教え(仮に説いた方便)にすぎない。
確かに大乗仏教には属するが、円満無欠(円教)の実教である法華経が説かれる前に捨て去るべき経典である。
また『般若経』とは菩薩に知恵を与える為に釈尊が説いた高度な教え(別教)であり、それこそ厄払い、悪魔払いの為の教典に非ず。
一口に「般若心経」といっても、その中には『摩訶般若経・光讃般若経・金剛般若経・大品般若経』等々、多くの経典がある。しかしそれがなぜ世間でも写経といえば『般若心経』だけを用いるのか?これは賢人、聖人でもない仏教に無知で愚かな僧侶が安易に「右へならえ」的に『御経』といえば何でもかんでも『般若心経』と単純に用いている、というのが本音であろう。
そのような目的にも応じておらず、また適ってもいない、菩薩でもない対象に用いても何の効力も得られるはずもなく、かえって不詳の災厄を招く事態となる。逆に状況は悪化してしまうという事である。
そんなところからも神社、仏閣なら何でも良し、何かあれば無頓着に参詣する風潮が、悪鬼、魔人がいともたやすく人に憑依し、気を狂わせ、或いは悪心を起こさせ、人心の濁った現代のような災難や争いの多い世の中に変貌してきた根本原因であると断言できる。
事実その『般若心経』を説いた方(釈尊)も、この現代(西暦二千年以降)に於いてその経典の読誦どころか書写をする事自体、無意味であり、かえって害毒となり、行ってはならないという事を経典上に残されている。
その誤りをいくらその住職等に指摘したところで、今さらその化儀(仏法上の所作)を変える事もなく、ましてやその宗旨の根幹である教義の間違いをいくら説明しようが、聞く耳を持たない。つまり「問答無用」という事である。
中には「問答対応マニュアル」まで周到に用意している宗派もある程である。これではいくら檀家さんに仏教の教えを説法しようが、その内容はかえって仏法を誹る事となり、悪霊退散どころか成仏も叶わない。
その様な姿の僧侶の事を仏教典には、
【或いは阿練若(あれんにゃ)納衣(袈裟、衣の事)にして空閑(くうげん)に住し、心は増上慢で諂曲(てんごく)なり】
と、かえって正しい仏法を誹謗する悪僧であると説かれている。
- 諂曲(てんごく)自分の意思を曲げて相手(檀家等)に媚びへつらう事。
【諂曲なるは修羅、癡かは畜生、貪るは餓鬼】
と説かれ、静かな場所で法の論議を嫌い、偉そうに振る舞う僧侶の事をいう。
そのように仏教を単なる『神仏商法』として利用し利益を貪り、国中に時に適った正しい仏法が広まらなければ、その国土には仏教典に説かれる通りの三災七難が次々と起こると説かれている。
『善根悉く消失し、その国当に三つの不詳の事有るべし/大集経より』
第一の災難、穀貴の難/物価の上昇。
第二の災難、兵革の難/国どうしの紛争。
第三の災難、疫病の難/コロナ・ウイルス等)
『円(法華経)を捨てて偏(般若心経等)を好む。悪鬼便りを得ざらんや/立正安国論より』
『土山・石山を雨となし、砂、瓦礫、石を流す/仁王経より』
『国土乱れん時は先ず鬼神乱れる。鬼神乱れるが故に万民乱れる。その時賊來たりて国を脅かし、天地が怪異す/仁王経より』
所謂昨今の天変地夭、熱海の土石流等の自然災害が、次々と「一難去らずにまた一難」とばかりに不祥事として競い起きてくるという様相に変貌していくのである
『国土に災難来たる時は七つの難が競い起こる/薬師経より』
その内、
第六の難、他国侵逼の難/ロシアが日本を非友好国として敵視し、排他的海域内に戦艦が入り国民を脅かし。
第七の難、自界謀逆の難/テロ行為が日本でも勃発する。いわゆる元総理が銃で撃たれ亡くなるなど。
まさしくその日本の様相はこれら仏教典に説かれる通りに変貌しているといえよう。