
宗教団体として国の法務省に申請する場合、宗教法人法があり「本尊」(法の宝)を定める必要があった。本尊とは信仰礼拝の為の根本尊崇とする対象物の事である。
これがなければ、信仰が単なる哲学となってしまう。本尊とはその宗教の、謂わば教義の根本を表わす唯一の物質的存在となる。
そしてその本尊に手を合わせ、自分と一体化させる程の尊敬の念を持って礼拝する事で、感応の原理によりその本尊の影響をストレートに受けてしまうのである。それが宗教の原理といえよう。
だからその本尊を選択する事は大事である。
そしてもう一つ、仏の宝(その宗教の精神的存在)を『宗徳菩薩』と定めた。
その宗徳菩薩様に、今度は本尊を何にすれば良いかとたずねると、
『本尊は鰯(イワシ)でも鰡(ボラ)でも何でも良いのです。私の魂がそこに宿ればそれで良いのです。それに信者が手を合わせ、礼拝すれば私が感応の原理で知恵を授けるのです』と。
しかし良く考えてみてほしい。実際によく世間でも「イワシの頭も信心」などと言って、何でも信じれば救われる的な言葉を聞くが、同じ信じる対象でも、イワシの頭と、崇高な哲学者の教えを人生の根本にして信じるのとでは、そこには雲泥の差がある、というものである。
そしてそのお告げ通り、私は「ボラ」を本尊と決めた。
その、世界中の民衆を救済すべく、私の元に現れた菩薩たる宗徳様の実弟である私は、宗教団体『精神改革塾』(その理念は正直で清らかな心に真の菩薩の生命は宿る)を立宗宣言し、先ずは塾長(教祖)である自ら「宗三」と改名し、『思った事は全て言葉にすべし』という信心修行を始めたのである。
あるテレビ番組でもそのような題材(思った事が全て言葉として言ってしまう)を用いた内容のドラマがあったが、まさにそれを地でいく状況であった。
まずはスタジオ業務は表看板とし、副業というかたちでその宗教団体を立ち上げた。
バイトの北原君いわく、
「スタジオ経営と教祖さまですか~? ずいぶんと大胆な副業ですね~」
そして北原君をその副塾長に任命した。
宗徳菩薩様は、その業務状況、お取引先顧客の選別、経理に至るまで事細かく指定してきた。
例えば副塾長である北原君への毎月の給与も、その業務就業時間に関係なく、いかにその「精神改革」の日々の修行により、どれだけ真の菩薩の心に近づけたかによって決められた。
先月は十二万円だったが今月は十五万円渡すようにと、私の脳は完全に宗徳菩薩様に支配されていた。
そのように、北原君にも宗徳菩薩様の給与査定に関係するからと、その修行の意義と実践法を教え、共に切磋琢磨、精神改革の修行を重ねていった。
次第に口に出さずとも互いに念を送りあい、多少の事は通じ合うようになっていった。
「今日の昼飯は、えーっと・・・(観念の法を念じ)」
「あ、ざるそば二枚ね!」という具合である。
宗徳菩薩様によれば霊長類である人間には昔、言語を用いていなかった頃は互いに念が通じ合い、ある程度理解し合えたそうだ。渡り鳥なども集団で行動出来るのはその能力が失われていない証拠という事である。
現代でも「ブレイン・ダイブ」と言って相手の強く念じた内容を読み取る、というマジックがあるが、その能力も過去には人間にはそれと同様の能力を備えていた、という証拠であり、それが先祖返りとしてその様な力を持った人がまれに出てくる、という事であろう。