
我々は生前、精神的な霊魂の世界で共存していたが、さらに高度な知能と慈愛の精神を身に付けるために仮相空間というバーチャルな世界を創り出した。
そこのバーチャル世界で生活するために肉体という生命個体を得て、その上で互いに修行し、いずれまた真実の現実世界、つまりあの世、霊界に戻っていく、という道理だそうだ。
確かに私も幼い時、
「あのオバちゃん、デブだねー」などと言うと母親から「黙っていなさい!そういう事は思っていても言ってはダメなの!」とたしなめられた。
これは当然な親としてのしつけであるが、そのように私達人間は成長する過程では心と言葉、つまり「精神と肉体」とを、他の意識と都合良くコミニュケーションをはかり、共存するために都合よく分離する「能力」を教わり自然と身に付けてきたのである。
要はうまく社会を生きていくためには「心に思っても口には出さず」それが美徳であり、他人と仲良くやっていくための知恵を備えていった、つまり人間社会で争い事や摩擦のない世の中でうまくやっていく術を身に付けるという事である。
それが世間の常識というものである。
しかし本当に心から相手の事を良かれと思って真実をアドバイスしたりすれば、かえってややこしい事になり、け嫌いされる要因でしかない。
うまく世間を渡って「仕事で稼ぐ」ためには、いかに相手を納得させる話術を身に付けるか(騙し合い/ハラの探り合い)的な営業力重視、正直者はバカをみる、的な発想が主体である。
しかしこれらの思考法、付き合い方は仏教的にみれば何の善でもない。(仏教では悪知識とされる)
それとは逆に相手の為には耳に痛かろうが嫌われようが真実を伝える、それが真の「慈悲の心」となる。(仏教では善知識と説かれる)
世間でも「忠言、耳に逆らう」と格言がある通りである。
私は「これこそが仏の心を得るための真理である」と信じ込んでしまった。
これは仏教の一つの真理ではあるが、私はまんまとその真理と魔の翻弄とを混同し、騙されてしまったのである。
—————-まずは私、宗三の修行から——————————————-
「他の人と話をする時には必ず思った事は口に出さなければならず」
これは非常に難しい。実践すれば嫌われる事必然である。
社会人は誰しも出会った時、初対面であっても或いは親しい仲であったとしても、必ずといっていい程、心には裏腹の、つまり嫌われる要素は思っていても口には出してはならない、という常識的なルールが存在する。
軽~い「あ、あなた鼻毛、見えてますよ~」「ズラ、ずれてますよ~」程度ならまだしも「あんた、いつも臭いね~いつ風呂入ったの?」とか、
「ブサイクだよね~あんた」「君いつまでたっても洋服のセンス無いね~」
「頭、このごろ随分と薄くなってきたんじゃないの?」などとは、それこそ上司や得意先に言えば商談決裂、最悪は名誉毀損罪で告訴、或いは多重人格者として扱われてしまう事であろう。
しかし宗徳菩薩様によれば、その修行(思った事はなんでも隠さず必ず口に出す事)を実践していけば、いずれその心は浄化されて清らかとなり、決して他人の悪口など、それこそ口が裂けてもどころか思う事さえなくなり、本当の菩薩の境涯に達するのである、という事だそうだ。心が清らかになれば人格も改まり、その姿も生き仏のような荘厳な姿になってゆく。
私はまさしくその通りである、宗祖宗徳菩薩様は真の賢人であられる事を確信し、まさしく生き仏と成った自分の姿を妄想し、精神改革の修行を自ら決意したのである。